「ヘイトフル・エイト」に見る、タランティーノの深層心理

 

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タランティーノの映画、「ヘイトフル・エイト」。去年公開されたものだけど、最近見返してみたので、思ったことなどをつらつらと書きつらねてみよう。

 

とにかく最初から最後まで、どこを切っても、タランティーノ臭がプンプンと画面からただよってくる、濃厚な映画だったといえよう。
まぁそれはいつものことなんだけど。
その臭いの好き嫌いで、はっきりと、好みが分かれてしまう映画なのは間違いない。
で、私はといえばもちろん好きである。
というか、映画通を自称する者ならば、まずほとんどの人はタランティーノが好きだ、と公言しているのではないだろうか。
もし仮に嫌いだ、などと言おうものなら、お前は映画というものがわかっていない、とマニアの方々からののしられるような、そんな気配がただよっている、気がする。
そんなわけで、私はタランティーノっていいよね、などとつぶやきつつつ、毎作品ごと、映画館に足を運んでいるわけだけど。
実は結構、苦手かもしんないと、今作を観てて思ってしまった。
というのも、全編を通じて、あまりにもくどいからだ。

 

確かに、一作目の「レザボア・ドッグス」や次作の「パルプ・フィクション」は、これまでにない新世代の映画という印象があり、時系列がバラバラに展開するストーリーなどにもおどろかされて、今でも大好きな映画ではある。
けれど、それ以降の作品はというと、案外ビミョーな気がする。
いや、もちろん、それぞれ面白くは観たけれども、どうにも無駄に長いというか、くどいなぁ、と思っていたのも事実なのだった。
今作を観て、改めてそう思ったしだい。

 

タランティーノのもっとも大きな特徴といえば、長ゼリフというか、各登場人物たちによる、言葉の応酬であるのは、ご存知のとおりで、その意味があるんだかないんだか判然としない、マシンガン・トークの連続は、確かにおもしろいけれども、全編通じてそれが続くとなると、さすがに胸焼けを起こしてしまう。
なによりそのせいで、無駄に長くなっている。今作も2時間50分もある映画で、そのあたりうまく整理していけば、2時間以内にまとめることができるんじゃないだろうか。(だがしかし、そんなことをしたら、タランティーノらしさが確実に失われてしまうのもまた事実なのだ)
そしてこのタランティーノの映画をタランティーノたらしめている、この激しい言葉の応酬は、理屈でもっていかに、相手を言い負かすか、というバトルであって、決して互いに理解し合うための話し合いではないことだろう。
登場人物全員が、そんなふうに、相手を言い負かそうと言葉を武器になげつけてくるわけで、それが延々と続くとなれば、観ていてさすがに、くどいというか、疲れてくるのは当然だ。

 

加えて、タランティーノ映画にただよう、SM志向というのだろうか。しかも男性同士によるハードなSMへの志向がさらにくどさに輪をかける。
本人は意識してるのか、してないのか、わからないが、今作にも出てくる、血まみれの中で、のたうち回る男と男、という構図。
タランティーノ映画でよく出てくるそうしたシーンが、どうにも、あれなプレイをしているように見えて仕方がない。
たしか本人は女性の足フェチだったかで、性の対象は女性なんだろうけれども、意識下でそっちへの欲望を抱えているのではないか、とかんぐってしまうくらいだ。
それほど、映像から、ハードなSMプレイへの渇望がすけてみえる。なんというか、男と男の血と汗の臭いがただよってくるというか。
ま、別にそうした趣味を持っていてもそれはそれでまったくかまわないんだが、どうにも濃厚すぎて、さすがに長時間つきあわされるとなると、げんなりしてくるのだった。

 

などと文句を言いつつ、この長尺を睡魔にもおそわれることなく最後まで一気に観てしまったのだから、なんのかんのいっても、面白いのは事実で、監督としての力量を疑うものではないのは改めてお断りしておく。
つまりは、ただ単に私も歳をとり、こってりとした味わいの映画には胃もたれしてしまうようになったということなんだろう。