猿の惑星 聖戦記
猿の惑星 聖戦記を観ました。感じたことをつらつらと書き記しておこうと思います。
猿の惑星の前日譚(プリクエル)三部作の三作目となる本作。
猿インフルエンザと呼ばれる感染症の蔓延により、もはや絶滅への道は免れ得なくなった人類。
その最後のあがき、いやがらせだろうか。残された人類は知能を身につけた猿人を虐待、ひっとらえて強制労働させるのだった。主人公であるところの猿人シーザーはその仲間とともに、そこからの脱出をこころみる。
って本当、どっかみたようなストーリー。
猿を被支配者ととらえれば、差別を受ける側が猿になっているだけで、まんまかつての、聖書をもとにしたスペクタクル歴史物そのもので「ベン・ハー」だったり、「十戒」といった映画を連想した。
主人公のシーザーが、苦悩しながら民衆(猿)をひきいて最後の新天地へとたどりつくラストなど、もはやほとんど脱エジプト記というか、聖書を思わせる展開だ。シーザーがモーセのように見えてくる。そう考えると、やはりキリスト教というのはアメリカという国の根源にあるものなのだろう。
しかしここまでいくと、もはや猿対人間というよりも、旧人類と新人類による、世代交代による衝突の物語としてとらえた方が良さそうだ。
視点は完全に、新人類である猿側にあって、観客である私はすっかり猿の方を応援していた。
実際、そういう風に作られているので、それも仕方がない。ほとんどの人は猿側に肩入れしてしまうことだろう。
人種間の争いのむなさしを描き、憎しみ合うことをやめようと訴えているこの映画。実に理性的に描かれていて、間違ったことはひとつも言っていない。実に公平な視点にたっていると思われる。
とはいうものの、こうした映画が世界中で見られ、多くのひとが感動しているにもかかわらず、世界情勢は日々悪化の一途をたどっているようにみえるのはなぜだろう?
人種間の争いは絶えることがなく、憎悪はふくれあがっていくばかりだ。
おそらくきっと、本来は誰もがその善悪の判断はついているのだろう。
けれども、それを打ち消してしまうほどの、理性ではおさえることのできない、本能、業とでもいうべきものに、人間は突き動かされてしまう生き物なのだ。
とそう考えていくと、人類がいなくなるその日まで、争いはやむことはないのだろう。
なんてことを観終わって思ったりした。
以上ですっ。