「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで村上春樹の文体について考える

小澤征爾さんと、音楽について話をする (新潮文庫)


 コンダクターの小澤征爾と、作家村上春樹による対談集。基本的には村上春樹小澤征爾のもとを訪れ、あれこれとクラシック音楽や業界について訊くという体裁をとっている。
 クラシックはもとより、音楽全般に造詣のふかい村上春樹のことだから、もちろん質問は的確で、するどいところをついている。それに答える小澤征爾のほうも、だから実に楽しそうで、行間から2人の親密なやりとりが感じられ、なかなかほほえましい。こちらも楽しく読むことができた。

 

 それにしても、ここで語られる小澤征爾のはなやかな過去の経歴には感嘆せずにはいられない。
 将来を有望視された若きコンダクターとして、世界的に有名なバーンスタインカラヤンといった指揮者に師事し、ウィーン、パリ、ニューヨークと世界中を飛び回る。その顛末は刺激的で魅力的で、まるで夢のよう。現実であるとは思えず、ここまでくるともはや違う世界の住人の話を聞いてるみたいだ。
 くわえて、この本を読んでいると、無性にクラシックを聴いてみたくなるという側面もある。
 たとえば同じ交響曲であっても、年代、指揮者、楽団の違いでまた、味わいが変わってくるという話や、作曲家の個性や分析、クラシック業界の裏話などなど。クラシック音楽の入門書としても役立つ内容だと思う。
 このようにまことに良書であるのだが、しかし、わたしがとくに、おやっ、と強い興味をひかれたのは、実は音楽のことでなく村上春樹の小説感についての箇所だった。

 

 先に述べたとおり、本書では村上春樹は聞き役に徹しているのだが、ところどころで話の流れで、自身についても語っており、そこで小説を書くうえで、何を重要視しているかについて言及している。
 それによると、小説を書くうえで村上春樹がもっとも気にかけているのは、何よりその文体であるということだった。いかにテンポよく気持ちよく読ませるか、そのリズム感こそが重要だというのだ。
 何だったら、話の内容、テーマなどは、それにくらべればたいしたことはない、とまで言い切っている。
 つまり、村上春樹は、内容をつたえるために文章をつづっているのではなく、楽器を奏でるように言葉でもって音をつむいでいるということなのだろうか。

 

 そうと聞いて、なるほど、とわたしは得心がいった。というのは、たとえば、アマゾンのレビューを読んだりすると、村上春樹の本は賞賛する数と同じくらいアンチの投稿があり、それによると、やれ主人公がむだにもてすぎるだとか、やれおしゃれなライフスタイルが腹が立つだとか、やれ気障ったらしい比喩表現の気に食わないだとか、いう批判が書かれている。
 じつは私もその意見にはうなずけるところがあって、とくに最近の作品は話の展開だったり、キャラ設定など首をかしげざるをえないところが多い。村上春樹は大丈夫だろうか、と思うこともしばしあるほどだ。
 しかし、にもかかわらず新作が出るときけば、やっぱり読みたくなって手にとってしまうのはどうしてだろう? と疑問に思っていた、その理由が氷解した。

 

 わたしは村上作品のその文体。リズムカルで軽快な、彼の文章によってかなでられる音楽を楽しみたくて読んでいたのだろう。ストーリー、テーマなどは実はどうでもいいいものなのだ。
 ……でも果たしてそれは、本当にいい小説といえるのだろうか。いえる。と私は思う。
 たとえば、音楽を聴くのも、その裏にあるテーマ、作詞によるストーリー、などなど、をいちいち気にして楽しんでいるかといえばそうではない。単純に、楽器の音色だったり、リズムだったりを聴くという楽しみもあるはずで、小説でもその内容と関係なく、文体から生まれるテンポのみを楽しむといった読み方もあっていいはずだと思うのだ。

 

 というかんじで、両氏のファンはもちろん、そうでない人にも色々と発見のあるいい本ではないだろうか。