「WOWOWぷらすと」


 最近、「ぷらすと」という、WOWOWで放送されている番組の過去放送分が公式にYouTubeにアップされているのを発見し、そればかり視聴している。
 内容は、そのすじの評論家たちがテーマにそって、あれこれと討論をするといったもので、おもに私が好む映画やロックといったサブカルチャーが中心ということもあってか、楽しくみている。どこかで見知ったことのある情報を、それぞれが得意そうに披露しているだけの、豆知識合戦めいた回もあるにはあるが、ま、それはそれでほほえましい。
 そんななか、とくにおもしろかった回は、2017年、および2016年の洋楽シーンをふりかえる特集だった。一時期熱心に愛読していたロック雑誌「ロッキングオン」の編集部員だった人たちが論者として出てくるのも興味深かったし、何より昨今の洋楽シーンについて知れたことがよかった。
 おもえば、洋楽の最新トレンドを追わなくなってずいぶんたつ。かつては新しく刺激的な音をもとめて、ヒットチャートを紹介する番組や、雑誌など、たんねんに目をとおしていたものだけど、それも90年代くらいまでのはなしで、2,000年をこえた頃から、すっかり興味をなくしてしまった。とはいえ、音楽自体を聴くのは変わらず好きで、何を聴いているのかといえば、過去、60〜80年代あたりのロック・ポップスばかり。ほんとうに最新の音楽にはまったく食指が動かなくなっている。
 しかし今回の番組を見て、現在の洋楽シーンがなかなかおもしろいことになっているということを知った。ということで早速、彼らがプッシュしていた、幾人かのミュージシャン。ケンドリック・ラマー、ヤング・サグ、KOHH(いずれもラッパーばかりだ)の三名をYouTubeで検索して聴いてみた。わくわくと期待に胸をふくらませながら。
 ……しかし、おもしろくなかった。何だろう? かつては新曲となると、何かしら刺激を受けたものだけど、どうも胸にひびくものがない。たんにわたしの感性が年をとったせいで鈍化してるだけかもしれないけどさ。
 というわけで、またしばらくは(というか、今後ずっと?)過去のロック・ポップスを聴きあさる日々がつづきそうだ。
 しかし思えば、「ロッキングオン」を読んでいたときも、雑誌がプッシュしている音楽は案外、ピンとこなかった気がする。きっと評論しやすいミュージシャンというのがいるのだろう。その時代のシーンを象徴するというのか、そういう存在の人が。そしてそういう人の作る音楽は、案外わたしのアンテナには引っかからない。深いこと考えてなさそうな人の作る音のほうがむしろ新しく、おもしろく感じることが多かったりする。きっとわたしはそういうタイプなんだろう。
 ということがわかったところで筆をおく。

 ……って、なんだこの文章。

 

 

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで村上春樹の文体について考える

小澤征爾さんと、音楽について話をする (新潮文庫)


 コンダクターの小澤征爾と、作家村上春樹による対談集。基本的には村上春樹小澤征爾のもとを訪れ、あれこれとクラシック音楽や業界について訊くという体裁をとっている。
 クラシックはもとより、音楽全般に造詣のふかい村上春樹のことだから、もちろん質問は的確で、するどいところをついている。それに答える小澤征爾のほうも、だから実に楽しそうで、行間から2人の親密なやりとりが感じられ、なかなかほほえましい。こちらも楽しく読むことができた。

 

 それにしても、ここで語られる小澤征爾のはなやかな過去の経歴には感嘆せずにはいられない。
 将来を有望視された若きコンダクターとして、世界的に有名なバーンスタインカラヤンといった指揮者に師事し、ウィーン、パリ、ニューヨークと世界中を飛び回る。その顛末は刺激的で魅力的で、まるで夢のよう。現実であるとは思えず、ここまでくるともはや違う世界の住人の話を聞いてるみたいだ。
 くわえて、この本を読んでいると、無性にクラシックを聴いてみたくなるという側面もある。
 たとえば同じ交響曲であっても、年代、指揮者、楽団の違いでまた、味わいが変わってくるという話や、作曲家の個性や分析、クラシック業界の裏話などなど。クラシック音楽の入門書としても役立つ内容だと思う。
 このようにまことに良書であるのだが、しかし、わたしがとくに、おやっ、と強い興味をひかれたのは、実は音楽のことでなく村上春樹の小説感についての箇所だった。

 

 先に述べたとおり、本書では村上春樹は聞き役に徹しているのだが、ところどころで話の流れで、自身についても語っており、そこで小説を書くうえで、何を重要視しているかについて言及している。
 それによると、小説を書くうえで村上春樹がもっとも気にかけているのは、何よりその文体であるということだった。いかにテンポよく気持ちよく読ませるか、そのリズム感こそが重要だというのだ。
 何だったら、話の内容、テーマなどは、それにくらべればたいしたことはない、とまで言い切っている。
 つまり、村上春樹は、内容をつたえるために文章をつづっているのではなく、楽器を奏でるように言葉でもって音をつむいでいるということなのだろうか。

 

 そうと聞いて、なるほど、とわたしは得心がいった。というのは、たとえば、アマゾンのレビューを読んだりすると、村上春樹の本は賞賛する数と同じくらいアンチの投稿があり、それによると、やれ主人公がむだにもてすぎるだとか、やれおしゃれなライフスタイルが腹が立つだとか、やれ気障ったらしい比喩表現の気に食わないだとか、いう批判が書かれている。
 じつは私もその意見にはうなずけるところがあって、とくに最近の作品は話の展開だったり、キャラ設定など首をかしげざるをえないところが多い。村上春樹は大丈夫だろうか、と思うこともしばしあるほどだ。
 しかし、にもかかわらず新作が出るときけば、やっぱり読みたくなって手にとってしまうのはどうしてだろう? と疑問に思っていた、その理由が氷解した。

 

 わたしは村上作品のその文体。リズムカルで軽快な、彼の文章によってかなでられる音楽を楽しみたくて読んでいたのだろう。ストーリー、テーマなどは実はどうでもいいいものなのだ。
 ……でも果たしてそれは、本当にいい小説といえるのだろうか。いえる。と私は思う。
 たとえば、音楽を聴くのも、その裏にあるテーマ、作詞によるストーリー、などなど、をいちいち気にして楽しんでいるかといえばそうではない。単純に、楽器の音色だったり、リズムだったりを聴くという楽しみもあるはずで、小説でもその内容と関係なく、文体から生まれるテンポのみを楽しむといった読み方もあっていいはずだと思うのだ。

 

 というかんじで、両氏のファンはもちろん、そうでない人にも色々と発見のあるいい本ではないだろうか。

  

 

「ドリーム」

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 時は1960年初頭、アメリカとソ連が宇宙進出をかけてしのぎをけずるなか、まだコンピュータが使いものにならぬ時代ゆえ、宇宙ロケットを打ち上げるために必要な膨大な計算を処理するための、NASAは優秀な人材をほっしていた。
 そうしたなか注目されたのが数学の天才である黒人女性3人。彼女たちは差別にもめげず、その才能を武器に、無理解な周囲に存在を認めさせ成功を手にしていく。その様子を描いた映画。
 いかにもアカデミー賞ねらいの感動的な内容で、とくに欠点も見当たらないのだがしかし、ここまで完璧に作られると、逆にケチをつけたくなるのが人情というもので、なんというか、こんなトントン拍子にうまくいく話がそうそうあるもんか、と観ながら思っていた。(実話ベースの話なんだけどね)
 というか私のように物語世界に没入してしまうようなタイプには、こうした映画は実に危険だ。努力すればかならず道はひらける、成功できる。みたいな、そうした過度な希望を植えつけられてしまいそうで。
 しかし現実にはいくら努力しても報われない人というのが大半であって、この映画の主人公たちのように成功できるのは、ほんの一握りにすぎない。そしてなにより注意すべき点は、主人公三人は、いずれもが数学の天才、生まれついての選ばれた人間であるということで、その他多くの凡人たちからすれば、そもそもの出目が違う。
 でも意外とこの映画を観てるとそうした部分をわすれてしまう。(普通の人にすぎない)わたしもがんばればできる! と無駄な希望を抱かせるような作りになっている、ような気がする。だから勘違いしてしまう人がいるんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまう。
 実際、この映画に影響されて、あれだけ努力したのにどうして報われないの? とか文句を言う人がその後出て来るような気がする。いったん夢を見させられてから、非情な現実に引き戻されると、受ける精神ダメージはことのほか大きいですからね。それなら最初から夢なんて見させないでよ、とか、そう言いたくもなるだろうし。最悪の場合、世間を逆恨みして犯罪にはしってしまう人だっているかもしれない。
 そうした意味で、罪作りな映画だな、と思ったしだい。

 と、ネガティブなことを書いてしまったけれど。そんなひねくれた者のたわごとを抜きにして、一本の映画としてみれば、これは実によくできた映画であるのは間違いない。
 ストーリー、演出、俳優の演技、カメラワーク、どれもが完璧で欠点が見当たらない。それはきちんと言及しておかねばならないだろう。

 それと気になったのは、これもまた結局アメリカ万歳な映画だったなということ。観るものをアメリカ好きに洗脳させるというか、いろいろと問題もあるけどアメリカって言論の自由がゆるされたいい国だねっ、と思わされてしまう。そんなプロパガンダ的な側面をもった映画であるということを念頭において鑑賞したほうがいい気がする。

サウナの効用

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というタイトルで何か書こうと思った。というからにはもちろん。私はサウナが好きで、もう十年以上も、週一ペースで、大きなサウナのある近辺のスーパー銭湯とやらに、足繁く通っている。
もはやサウナは私にとって、生活の一部。なくてはならぬものになっているのだが、しかし、興味のない人からしたら、あんな熱いところにはいって、どこが楽しいの? とそう思うことだろう。
実際、私もサウナが好きになる前の二十代のころはそう思っていた。
そもそも考えてもみてほしい。
外気が三十度も過ぎれば、ほとんどのひとはうんざりするだろう。できるならエアコンの効いた部屋から、一歩も出たくない。そう思うはずだ。
それなのに、あのサウナの、100度近くもある密閉された空間へ、何を好きこのんではいらねばならないのか、理解に苦しむのは当然である。
だがしかし、大人になればなんとなく、理解できる人もいると思うが、人間、案外、自ら進んで苦しみを求めにいってしまうところがある。
じっと耐え忍ぶ。そんな状況に得もいわれぬ快感をおぼえてしまう人というのは確実にいて、まぁ、つまりはマゾ気質の人である。
そういう人にとって、サウナというのは、実にお手軽にその欲求をみたすことのできる場なのだ。
そう。かくすまでもない。私もまたそうしたマゾよりの人間なのだ。

 

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高温の密閉された空間で、その熱気に汗をながしながら耐えしのぶ。そうした過酷な状況下は一部の人にとっては快感なのである。
そしてまた一転、そこから出て、冷たい水風呂につかったときの得もいわれぬ開放感。
苦しみのあとの解放。これこそがまさしく、サウナの醍醐味といえよう。
まぁ、そのあたりのことは、漫画家であり、「ととのったー」のサ道としても知られるタナカカツキさんが語っておられるので、それを読んでもらうのが、ここで私がくどくどとつたない文章をつづるよりもはるかにわかりやすいことだろう。
Googleで、サウナ、タナカカツキと検索すれば、列挙されるので、ぜひそちらを参照してほしい。
いかに水風呂が重要であるかを力説されている

 

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そう……。水風呂。
サウナについて語るのならば、やはりその存在は無視することができない。
先に断っておくが、体に負担をかける行為なので、くれぐれも注意して、異変をおぼえたらすぐにやめることと注意をうながしておくけれども、何、行為自体は、別段むずかしいことではなく、ただサウナから出た後、水風呂に極限までつかっているだけのことである。
最初のうちこそ単純に気持ちいいだけだが、体から熱が放出しまうと、じわじわと冷気がおそってくる。
まず気がつくのは、吐く息が冷たくなっていることだろう。
冷気が体の芯へと達してきた証拠である。
内臓がはっきりと冷たくなっているのがわかるのは、なかなか新鮮な体験だ。
そして次に、気づくのは聴覚の異様なさえであろう。
風呂場に響く水音。周辺の人の世間話。ピチャーンとしたたり落ちる水滴。空気の振動さえもが聞こえるような気になるほどだ。
そして次に視覚の変化に気づくだろう。
目の前の世界。(といっても、この場合は裸のおっさん、こどもがいるだけだが)がみょうにくっきりと浮かびあがるように感じられ、色彩が鮮明さをましていくのだ。
つまり、冷気がそのように極限状態にまで達すると、五感がさえてくるのである。
これはいわば、覚醒した、という状態なのだろう。
これは普段の生活ではなかなか得ることのできない体験である。
トリップする、というのはまさにこんな感じになるのかもしれない。
そう。こうした体験したいがために、私はサウナにはいっている、といっても過言ではないのである。
これはいわば、合法的なドラッグ。といってもいいだろう。
そしてこれは一種の苦行。インドの修行僧などがおこなっているものと同じなのかもしれない。
彼らがなぜあんなに苦しい修行をするのかといえば、苦しみのはてに、おとずれる、ナチュラル・トリップ、覚醒を得たいがためなのだろう。
それを彼らは悟りを開いた、というのではないだろうか。(ほんとかよ)


ともあれ、このようにサウナは体にいいだけでなく、精神面においてもいい効用があるので、一度体験してみることをおすすめする。
以上ですっ。

 

 

株トレードについて話そうか

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数年前から株トレードをしてみている。
何、こづかい程度であれば、簡単に稼げるっしょ。と根拠のない自信をもって、いどんでみたわけだが。
それから数年たって、現状はあらためて書くまでもないだろう。資金はしっかりと減っている。
不幸中の幸いとでもいうべき点は、私が小心者で、基本ギャンブルが好きでない、という性格のためか、その被害が最小限におさまっているところだろう。
最小ロット(100株)、ナンピンとかもしないため(というか怖くてできない)、損失もおさえられているわけだ。
具体的に書くと、220万円で始めて、現在150万円になっている。マイナス70万円。
さらっと書いたけど、あらためてみると、(私にとっては)決して少なくない額である。
今、手元に70万あったら……何が買えただろうか。と考えていくと、うしなった金額の重さが身にしみてくるというものだ。
まぁ、そもそも、株投資は遊び金でやれ、とその手のガイドブックには必ず書かれているので、もちろんそのつもりで投資したお金なのだから、今更、あれこれ言うつもりもないのだが、しかし。
そのなくなったお金を勉強代だという風にとらえてみると、はたして、そこから私は何を学んだのだろう。

 

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…………。
別に美化して書くわけでもないが、私はこれまで、自分のことを、情け深く、まわりの人に気をつかってあげられるタイプ、として認識していた。
がしかし、株をやってみて、まったくそんな人でないことがわかってしまったのだ。
よく金がからむと人格が変わるというけれど、まさにそれを実感したのである。
見せてあげたいものだ。
相場中、持ち株が急落していくのを前にして、パソコン画面に向かって、のろいの言葉をはいている私の姿を。
自分がこれほどお金に執着しているなんて……始めて知った。
しばらくして落ち着いて、自分の本性に愕然とすること、相場にむきあっていると、しょっちゅうである。
それだけならばまだいい。
さらにおぞましいのは、株をやっている人のブログをチェックして、仮にその人が大金を稼いでいようものなら、妬みのあまり、罵りの言葉をはいている自分を自覚した時だろう。
くわえて、逆に大損した人のブログを読んだ時は、愉快でたまらずに高笑いをしていた。
俯瞰してその姿をみたら、ほとんど狂人のように見えたかもしれぬ。他人の幸せをのろい、不幸を笑う、そんな自分にドン引きである。
普段、芸能人のゴシップにたいして騒いでる人を、どうかと思っていたが、人のことを言えたものではない。まったく同じ穴のむじな。いや、それ以下かもしれない。

 

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とこのように、かくされていた己のみにくい一面を実感できた、という意味では株トレードをして、よかったかもしれない。
きれいごとばかりではなく、醜い面を自覚してこそ、人間というのは成長していくものなのだから……。

 

ととりあえず、きれいにまとめてはみたけれど。
このように、株をやっていると、自分の意外な面に気づくことが多々ある。
己を見つめなおす。そうした修行をするつもりでやってみる、というのもありかもしれない。(あくまでも自己責任でおねがいします)

 

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あ、そして最後に言っておきたいのは、ほら、学生の頃に日経新聞とかを読んで、社会について勉強しなさいとか、そんなようなこと、言われたことないだろうか?
あれのせいで、新聞を読んでる人イコール、無条件でなんか偉い、って洗脳されていたけれど。でも今なら言える。
アレ、嘘ですから!
ほとんどの人は日経新聞を読んで、世界情勢について、気にしたりとか憂いたりとか、まったく思ってないから!
自分の持ち株が上がるかどうか、心配しているだけの守銭奴ばっか、ですから!
以上ですっ!

 

 

「IT それが見えたら、終わり」を鑑賞して思ったことなど

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 スティーブン・キング原作。以前にテレビドラマとして映像化はされており、ん十年んぶりに今回は映画としてリメイク。本国アメリカではすでに公開されており、かなり評判がよく、ヒットもしている様子。
 というわけで、かなり期待値が高い状態でいどんでみました。

 で冒頭、まずはつかみがうまいと思った。
 こんなかわいらしい子が、まさかこんな目にあうなんて……。ゆるせん。という感じですっかり引き込まれてしまった。
 それ以降も、怖いシーンが続いて、なかなかいい感じ。うわさどおり、これはおもしろいかもしれない。
 と思っていたのだが、しだいに雲行きがあやしくなって、そうそうに退屈してしまった。


 というのも、たしかに、映像自体は金もかかっている感じで、良い出来ではあるのだが、なんだろう。どのシーンも唐突に始まり、終わって、前後のシーンとのつながりが見えないのだ。
 ほら、怖いでしょ、じゃあ次はこれはどう? というような、独立したシーンをただ並べているだけ、みたいな。
 シーンとシーンをつなぐ肝心な部分が描けていないので、話にまったく入っていけないというか。
 だから、それぞれ個性的な登場人物たちである子供たちにも、一向に感情移入することができず、いつまでも、その言動に共感できないまま。それが最後までつづいて、どうにも観ていてイライラさせられた。途中でしめされる伏線も回収されることがないし……。これはきっと脚本の出来が悪いのだろう。
 ということで、個人的にはどうかと思うレベルの出来だった。

 

 しかしこれがヒットしているらしい。どうしてだろう? 
 考えてみるに、つまりこれはお化け屋敷映画として受けているのだろう、という結論にいたった。
 みんなで映画館へ行って、キャアキャア騒いで楽しむみたいな……。そうしたアトラクション的なものとしてみれば、たしかによく出来ているのだ。アメリカ人ってそういうの好きそうだし。
 というわけで、あまりおすすめはできないが、みなでワイワイ鑑賞するぶんには面白いと思う。

 

コーネリアス の「Mellow Waves」 を聴きました

Mellow Waves


 いつのまにか新譜が出ていたんですね。何と11年ぶりのオリジナル・アルバムということで、どんだけまたせるんだよ、という感じですけど。
 まぁ、コーネリアスこと小山田くんは、バンドサポート、サントラ、プロデュースなどなど、手広くやっておりますからね。ひさしぶりという感じもなく、現役感はありましたけれど。
 私も以前は好きだったんですけど、世界的に評価が高まってきた「point」あたりから、実は疎遠気味。どうもピンとこなくなってきて、今作も最近まで出ていたのを知らなかったくらい。
 で今回、Spotifyで無料で聞くことができたので、耳をかたむけてみたわけです。
 正直、ひととおり聴いたみた感想は、退屈、の2文字でした。また、このサウンドか、という感じで、「point」「sensuous」をひきつぐこの音にはもう飽きていたんです。

 

 でもそうは言いつつも、さすがにすみずみまで神経のいきわたった音作りは見事なもので、何回か聴いているうちに、悪くないな、という風に思えてきました。
 さすがに小山田くんも流行りの音に目移りして、色々やってみる時期をすぎ、ひとつの音色を追求する、そうした年齢になったのかもしれません。それはそれで素晴らしい選択だと思います。そうした意味では、さらに深化したコーネリアス・サウンドが展開されていました。

 

 そして今作でよかったのは、歌モノでしょうか。とくに前半。ひさしぶりにボーカルが中心にある曲作りで、あらためて小山田くんの声の魅力に気づかされました。ぼそぼそとつぶやくような、決して技巧的にうまいという種類のものではありませんが、落ちつくというのか癒される声なのです。
 けれど本人は自分の声が好きでないようで、インタビューでそのような発言をしていましたが、まったくそれは見当違いというものでしょう。
 私にかぎらず、多くの(というかすべて)のファンが好きなはずなので、えんりょせずに、どんどんと歌ってほしいものです。
 作詞は今作ではいくつか、他人に任せているようで、それもいい方向に作用しているものと思われます。
 というわけで、次作はさらに歌ものを中心につくってほしいなぁ、と思ったのでした。

 

 

Mellow Waves

Mellow Waves