「本を捨てる」
断捨離。まず何がいらないんだろう? そう考えて、あらためて自分の部屋を見回した。と、真っ先に目につくのは、いたるところに積み上げられた本の山だ。
私は(昔ほどではないにせよ)活字中毒気味なところがあるので、気づくと部屋に本や雑誌のたぐいが増えているのだ。そしてそれを捨てない。
のちにまた読み返す機会があるはずだ。もしくは書かれた情報が入り用になるのでは? もしくはモノとして愛着が生まれてしまう。といった理由で。手放すことができないのだ。
しかし、今の私は悪しき連鎖を断ち切らねばならない。その手始めとして、断捨離はおこなわなければならないことなのだ。だから、捨てる。
単純に面白くなかった本。絶対に読み返すことがないと断言できる本。そしてもはやボロボロになってしまった本。それらを選び出し、第一弾として処分することにした。
とはいえ、そのまま捨てるのはもったいないので、ちょっとでも利益になればと、近くにあるブックオフへとおもむく。
しかし査定の結果は散々だった。大半は価値なしとして値段がつかず。その他の本も、数円、よくて10円くらいと、数十冊手放しても100円にもとどかないありさまだ。
むしろ、ここまで車で持ち込んだ、ガソリン代の方が高くついたくらいで、これならば普通に捨てた方がはるかにましだ。
その後ネット・オークションに出すことも考えたけど。面倒そうなのでやめた。
見栄えのいい写真をとり、説明文をつけて、見知らぬ人とやり取りし、発送。時にはもめることもあるかもしれない。などと考えだすと、それだけでうんざりだ。
しかし。そうは言っても、捨てる本の中に、実はレアなものがかくれていて、そうした界隈では相当な価値がついているのではないか、と思うと、そう簡単に捨てるわけにもいかなくなってくる。
そうした金銭欲にとりつかれると、もはや断捨離は不可能である。整理する私の手はいつしか止まってしまい。本が捨てられなくなっていた。
これではいけない。何のために断捨離をおこなうのか、もう一度己に問いかけてみた。
これらを売って金を稼ぎたいのではない。そう、あくまでも自分の周辺をすっきりさせて、新たな一歩を踏み出すための、これは断捨離なのだ。そう気づいた。
まずは、いらないものを、自分のまわりから消してしまうこと。これが大事だ。
というわけで、もう何も考えず、近所にあるリサイクル・ボックスに、まとめて捨ててきた。
相当、抵抗があった。一番大きいのは、ひょっとした金になるのではという金銭欲だ。しかしこの欲を捨てなければ、道はひらけない。心を鬼にして、本を放り投げてきた。
数日後。……結果、なくなってスッキリしている。心が軽くなったようだ。過去の呪縛から解き放たれた、そんな気さえする。
というわけで、本の処分はとりあえず、終了した。
ポイントはやはり、何も考えずに、まずは捨ててしまうってことだと思う。
もうヒーローにはあこがれない
何だか私って、アホみたいに影響を受けやすいタイプってことに、今さらながら気づいた。いや、以前から薄々感づいてはいたんだけど。
例えば、映画とか本とか、友人や家族、テレビなどなど、そうした自分をとりかこむ、あらゆるものから、すぐ影響受けちゃう。
とくに、悪いことから強い影響を受けがち。そっちの方がつまり、印象に強く残るからってことだろうけど。
で、いつまでそうした印象は脳内にいすわって、いつしかそれらが実現化しているというか。そうした傾向がある気がする。これって本当によくないことですね。
あとホラーやアクション映画、ミステリー小説とか、やたら人が死んだり、うらぎ、うらぎられるような話を好んで見てますけど。あれらも良くない気がしてきた。相当、自分の中に、悪いものを植え付けていると思う。私が常に物事にたいして、悲観的になりがちだったり、すぐに鬱っぽくなるのは、それが絶対に関係している。
よく、啓発本とかで、自分にとって良いもの、良い人とだけ付き合いなさいとか、書かれているけど、やはりそれは一部当たっていて、悪いものばかりと向き合っていると、そちらに引っ張られてしまうのだ。
金持ちは金持ちとしか付き合わない。というように、成功する人、うまくいく人というのは、そのあたりを本能的にかぎとっていて、自分にとってよくないものは、無意識のうちに排除しているんだろう。
その理屈はよくわかる。わかるけれども私の場合、どうしても良くないものに惹かれてしまう。問題はどうしてそうなってしまうんだろうってこと。
考えていくと、あれかな。変な正義感なるものを、幼少期に植え付けられたせいかもしんない。弱気をたすけ、不正をおこなう悪をたおす。スーパーヒーロものの漫画やアニメをあまりに観すぎたせいだ。子供の私はそうしたものにすっかり洗脳されてしまっていたのである。
そしてこれもまた一種の精神疾患なのだろう。強迫観念ってやつ? 一度その思考にとりつかれると、そこからなかなか抜け出せなくなるってところもあって。なかなか考えを改めることができないんだよね。
でも、決して、かつてのそうしたスーパーヒーロもので描かれていたテーマは間違ってはいない。弱い立場の存在を忘れてはならない。そうした考え自体は、(一般的には)いいこととされているはずだ。
……けれど、その結果がこれです。今の私。
どうにもパッとしない、うだつのあがらない男。
……ああ、もういやだ。
考えてみれば、権力も財力もなく、人間的な魅力もこれといって持ち合わせていない私が、たったひとりで、偽善者をきどり、正義をふりかざしてみたところで、世界から不正がなくなるわけもなく、むしろ私のような外れものは、周囲にむしろ迷惑をかけているだけだと気づいてしまった。
ので、もうやめる。これから、自分にとってよいもの、人とだけ付き合っていこうと決めた。
で、まずは悪いものを意識的に断ち切るってことから始める。といっても、とりあえず、どうしたらいいんだろう?
とにかく、ごちゃごちゃとした脳内、および、自分の周囲をすっきりと整理すること、まずはそれからだって気がする。つまり、いらないものを捨てる。断捨離ってやつだ。
これ、やってみようと思う。
「株トレードは決して金儲けのためだけに、やるわけじゃない(多分……)」
株トレードをやっていると、それによってお金がどうこうっていうよりも、自身の性格というか、本性がわかって、なかなか興味深い。
ここで絶対に買いを入れなきゃって、ポイントが、一日中、相場を監視していると、一度や二度、必ずおとずれる。もう絶対上がる、って瞬間がある。しかし、それがわかっているのに、入れない。
それは過去に、同じような状況で買いを入れて、途端に大きく下がったっていう、痛い経験をしているからだけど。
でも、その時はたまたま下がっただけであって。トータルに見れば、確率的にはほぼ、7:3くらいの割合で上がることはわかる。わかっている。トレーダーであるならば、そこですぐに買わなきゃいけない。けれど、できない。どうしても買い、のボタンが押せない。
そんな時、ああ、私って優柔不断だな、と思うわけです。ここぞと言う時に、勝負に出れないなんて、それって男としてはだめだめじゃんみたいな。絶対に大物にはなれないタイプじゃん、みたいな。
ともあれ、案の定、迷っているうちに、アレヨアレヨと、株価は上昇していき、こちらはもう指をくわえて、見ているしかない。
そんな時につくづく、自分の小心さにあきれる。
トレードしていると、本当に、そうした自分の性格が垣間見えることがあり、なかなか苦しい。自分の悪い点ばかりが明らかになっていく。
運がない。ケチ。臆病。消極的。間が悪い。陰湿。などなど。あげていったらきりがない。やってみればわかるけど、これってなかなか辛い体験だ。
けれど、見方を変えれば、自分の欠点を自覚する、いい機会だともいえる。自分をいい方向に変えたいのなら、なによりまず、己を知らなければならない。そうして初めて、それを克服することができる。
そうした意味で、トレードは自己を客観、分析するには、最適な方法じゃないか、と思う。
ま、あくまでも株式は遊び金程度の範囲で、挑むことをおすすめてしておきますが。
なし
ここへ書き込むはひさしぶりだ。
私生活がゴタゴタしていて。というよくある理由で、お茶をにごしておこう。
というか単純に書くことがなかったのだ。
一本、ちょっとした文章を書き上げるのにも、それなりに、労力を使うものなのだ。
これから、また書いていくかはわからない。
けれど、ぼちぼちやっていこうかな。
仲の悪い親兄弟とうまく付き合う方法についての考察
親兄弟と一緒にいると、どうにもイライラさせられる。腹が立ってくる。そんな悩みを抱えている方はいるでしょうか?
けっこういると思います。というか、かくいう私がそうなので。
ええ。とくに思春期の頃は、それはもうたいへんでした。正直、イライラどころではありません。一緒の空間にいると殺意すらおぼえることもあったほどなので。。
とにかく言動のいちいちが気に触るのです。しまいにはほとんど口もきかず、顔を合わすことすら避けていました。
当時は結局、その関係は修復されることもないまま、私は高校卒業と同時に家をとびだして、それきりになっていました。
そのように逃げ出さなければ、なにかおそろしい犯罪をおかしていたかもしれません。だから今でもニュースで、家族間における殺人事件などの報道を耳にすると、ひとごとではないのです。犯罪にはしってしまった加害者の気持ちがわかってしまうようで。
それにしても、なぜ、それほどまでに憎悪がふくれあがり、コントロールできないまでになってしまうのでしょう?
近親憎悪という言葉があります。親族同士、または性格、立場が似通ったもののあいだにうまれる憎しみの感情のことですが、ふりかえってみると、憎悪の要因は、自分自身とそっくりな内面、思考、行動、をする他人がそばにいる、ということへの苛立ちから生じていたのかもしれません。
自分が何かしようとすると、同様なことをしようとする他人がすぐそばにいる。ときに先回りされたり、会話の主導権をうばわれたり。いつしか競争するようなかたちとなって、こうしたことが日々つみかさなっていくうちに、しだいに相手がうとましく、憎しみがつのっていくのだと思います。
それはまさに自分と向き合っているような状態ですね。つねに鏡と向き合っているようなもの。
自分の見たくない部分、欠点がつねに目のまえにちらついてる。それはたしかに不愉快にもなるでしょう。
そう。だから家族が嫌いという人は、自分のことが嫌いということかもしれません。逆に家族間の仲がよい人は、自分が大好きな、しあわせな人ということになるんですかね。
なるほど。私は自分のことが嫌いだったわけですね。
そんなわけで、原因はなんとなく、わかってはきたものの。これを治すにはどうしたらいいのか。
というのも、年をとり、長男という立場もあって、いろいろと家族と付き合わねばならぬ機会がふえてきたので、関係を修復したいなと思いはじめたのです。もう大人だし、いいかげん意地をはってるのもどうかと思って。
ということで、物事の変化をのぞむのならば、まずは自分の意識を変えるところからはじめようと思いました。
まずはじめの一歩として、悪いは私のほうだということにして、親兄弟と会うさいには、一歩ひいたスタンスで、会話をしてみることにしました。
そしてさらに、頭のなかで、彼らとはじつは身内ではない、アカの他人だと自己暗示をかけます。
他人であれば、たとえ嫌いだったとしても、あからさまに嫌悪をあらわにすることもできませんし。愛想笑いのひとつでも浮かべてやり過ごすしかありません。そんな気持ちでいどんでみたわけです。
そんなふうに、距離をもって、向き合っているうちに、わりと普通に会話はできるようになってきました。一触即発だった過去からすれば、大躍進です。
そしてさらに二歩目として、こういう風に考えるようにしてみました。
おもえば兄弟というのは、同じ両親のDNAをうけついだ、外見から中身から、もっとも自分にちかい構造をもった他人です。それって、じつに貴重な存在だ、と気づいたのです。
つまり自分がすぐそこにいる。長所や短所や、行動、思考などなど。観察対象として、これほどおもしろ素材はほかにあるだろうか? いやない。と。
だってじぶんを第三者の視点からながめられるなんて、得難い体験ではないですか。そう考えるようになったのです。
兄弟と対面することで、自分を客観的にとらえ、短所はなおし、長所はのばすことができる。まさに学習の時間であるととらえるようになりました。
そう考えるようになってから、あれほど苦痛だった、親兄弟と向き合っている時間が、むしろ楽しみになってきたのです。
実際、最近は兄弟間の関係もじつにおだやかなものになり、トラブルはおこっていません。
というわけで、この駄文が、仲のわるい兄弟をもちなやんでいる人にとって、ちょっとでも参考になればさいわいです。
というところでペンをおく。
ひらめく瞬間
どうでもいい問題を設定し、頭のなかでひねくりまわし、答えをさぐる、私はそうして暇をつぶす癖がある。
そんな時、ある瞬間、神の啓示を受けたかのようにパッとひらめくことがある。
誰もおもいつかなかったような、発想、定理、問題の決定的な答えが脳内に浮かび上がるのだ。
もしかして……私って天才? そう思わずにいられない。
そして何にたいしてかわからないが、ザマアミロ、という気持ちになったりする。
そんなふうにひとしきり浮かれたあと、今度はそれを誰かに話したいと思う。
つまり私ってこんなにすごいんだぜ、と自慢したいわけである。
身近な人ばかりだけでなく、このすごさを理解できる世界中のだれかに向けて、発信したい。
そうだ。今はネット、ブログというものがあるじゃない。
で、文章を書いて、発表。とこんなふうな経過をたどるわけである。
と、ここまではいい。
問題はそのあとだ。
それからしばらく時がすぎ、たまった本を整理していた時だった。
そのうちの一冊に何気なく目をとおして、私は発見してしまうのだ。
例の、天啓を受けたかのようにひらめいた答えが、そっくりそのままそこに書かれていることに。
何のことはない。過去にすでにその本を読んで、その内容をわすれていただけの話しだったのだ。
その答えの部分におそらく強い印象を受けたにちがいない。脳内の引き出しにしまいこまれたそれは、いつしか忘れさられ、時をへて、偶然その引き出しが開いて、外へ転がり出ただけだったのだ。
それをさも自分が発見したかのように、勘違いし、ひとりで浮かれていたわけなのだ。
まったく。調子に乗っていた自分がはずかしい。
でもこういうこと、けっこうあるんじゃないだろうか。
私にかぎらない。
世間でも、曲とか小説とかのパクリ疑惑。
きっとクリエイターたちは悪気なく、過去に影響をうけた作品を無意識のまま、アウトプットしてしまったに過ぎなのだろう。
私の場合、個人ブログというこじんまりとしたメディアで発表しただけ、恥ずかしい思いをせずにすんで、まだましだったのかもしれない。
ともあれ今回の件ははっきりしたことは、私はとくに突出した才能もない、平凡な人間だったという事実である。
大人になるというのはこういうことなのだろう。
ま、これでまたひとつ、謙虚さを身につけたと考えれば、いい経験をしたのかもしれない。
ブログってお金になるの?
アフェリエイトってもうかる、と一部のブログで読んで、私もその気になって一応、A8ネットやらに加入して広告を貼り付けているんだが。
利益は……まったくあげられていない。
ぶっちゃけると、ここ以外に別のブログももってて、合わせて二年以上やってるけど、利益は……1円であるw 笑うしかない。
適当にやってても、2、3千円はふつうにいくって読んだおぼえがあったんだけど、あれは気のせいだったんだろうか。
くわえて、あのイケダハヤト氏によれば、例の挑発的な文章でもって、月に3万円なら稼ぐのはむずかしくない、的なこと書いてたし。
それが2年で1円って……、私ってバカな子なの? そうかもしんない。ま、べつにいいけどさ。そもそもサイトにおとずれてもらうような、工夫とか勉強とかもしてないんだから。利益がでないのも当然だよね。
っていうか、そもそもアフェリエイトで稼いでるブログって、チェックしてみても、おもしろくないし。たんなる広告サイトじゃん、っていう。
それでも有益な情報が記載されてればいいけど、ほとんど文章、まるごとコピーしてきてるだけってブログも多いしね。
そんなにお金がほしいかなあ。(うん、ほしい!)ほしいよね、そりゃ、やっぱり。
結局、この文章も負け犬の遠吠えだもん。うまいこと稼ぎやがっていう、やっかみにすぎません。今、うまいこと稼いでたら、アフェリエイト最高! とか書いてるかもしんないし。そんなもんです。
でもま、私の場合、そうしたアフェリエイトのための文章って書いてても楽しくないのでね。だから今後も、そういうの、書くつもりはない。というか書けないので、気ままに好き勝手な駄文をつらねていくつもりです。